「中国は広い」。これは誰もが口にする、ほとんど反論のしようがない事実です。世界第三位とも第四位とも言われる広大な国土を持ち、地図の上では赤茶けた大陸が、見渡すかぎりに広がっています。けれど私は、二十年投資をやってきたなかで、こういう「大きさを称える言葉」に出会うたび、ふと立ち止まって考える癖がつきました。広いのは分かった。では、その広さは、本当に活かせているのか——と。今回は、中国の広大な国土を題材に、「規模の大きさ」と「実際に使える豊かさ」は別物だ、という話をしていきます。これは国の話であると同時に、私たちが企業の決算書や、自分の家計を見るときにも、そっくり当てはまる視点なのです。
このシリーズも第12話になりました。前回の第11話では「地理は変えられないからこそ堀になる」という話をしました。広い国土や有利な立地は、ライバルが努力しても手に入れられない強力な優位だ、と。今回はその続きとして、「では、その優位をきちんと活かせているのか」という、もう一段深い問いに踏み込みます。シリーズ全体の流れは中国から学ぶ資産形成シリーズのハブページにまとめてありますので、はじめての方はそちらからどうぞ。
あらかじめお断りしておきます。私は地理学の専門家でも経済統計の専門家でもありませんし、中国という国を称賛したり非難したりするつもりは一切ありません。称賛でも非難でもなく、中立的に「広さという条件から、資産形成に何が学べるか」という態度で向き合います。以下はすべて私個人の見解であり、特定の国や銘柄への投資を勧めるものではありません。お金や資産にかかわる判断は、最後はご自身の責任で、よく調べたうえで下してください。
沿海部の超発展と内陸・西部の人口希薄
「中国」と一口に言っても、その中身は驚くほど不均一です。私が地図を眺めていて、いつも考え込んでしまうのは、この国の発展が、ある特定の場所に極端に偏っている、という事実です。広い国土が、まんべんなく豊かなわけではない。むしろ、豊かさはごく一部の地域に集中していて、残りの広大な土地は、思いのほか静かなのです。
まず、目を引くのは沿海部の超発展です。上海、広州、深センといった東の海沿いの都市は、世界でも有数の経済の中心地に成長しました。高層ビルが林立し、港には世界中の貨物が出入りし、巨大な工場群が世界の製造業を担っている。ここだけを切り取って見れば、まぎれもなく最先端の先進地域です。海に面しているという地理的な有利さ——船で世界とつながれるという立地——が、改革開放以降の発展を、この東の縁に強烈に引き寄せました。前回お話しした「地理が堀になる」という話が、ここでは見事に当てはまっています。良い港という変えられない優位が、人と富を吸い寄せたわけです。
ところが、内陸に目を移すと、景色は一変します。海から遠く離れた西部や、山がちな内陸の地域は、沿海部とは比べものにならないほど、人口がまばらで、経済の規模も小さい。広大な土地が広がっているのに、そこに暮らす人の数は驚くほど少なく、一人あたりの豊かさも、沿海部とは大きな開きがあります。同じ国の中に、世界最先端の都市と、人影のまばらな広野が、同居している。これが中国という国の、まぎれもない実像なのです。
私はこの「同じ国の中の巨大な格差」を見るたびに、地理という条件の重さを、あらためて思い知らされます。海に近いか、遠いか。平らな土地か、山がちか。それだけのことが、何百年もかけて、人の集まり方と富の偏り方を、ここまで決定的に分けてしまう。沿海部が栄えたのは、住民が特別に勤勉だったからというより、まず「海に面していた」という配られたカードの強さが大きい。そう考えると、「中国は広い」という一言が、いかに大ざっぱで、中身を見落とした言葉かが分かってきます。広いことと、その広さが豊かさに結びついていることは、まったく別の話なのです。
砂漠・高山——使えない国土という現実
不均一というだけなら、まだ理解しやすいかもしれません。けれど、もっと根本的な現実があります。それは、中国の広大な国土のかなりの部分が、そもそも「人が住むのも、使うのも難しい土地」だ、という事実です。地図の上では立派に国土として塗られていても、実際にはほとんど活用できない——そういう土地が、相当な面積を占めているのです。
西部には、見渡すかぎりの砂漠が広がっています。雨がほとんど降らず、作物も育たず、人が定住するのも難しい乾いた大地。北西部のタクラマカン砂漠やゴビ砂漠といった広大な乾燥地帯は、地図の面積には立派に計上されますが、経済を生み出す土地としての価値は、ごく限られます。さらに南西部には、世界の屋根とも呼ばれる高い高原と山岳地帯が広がっています。標高が高すぎて、酸素も薄く、農業にも工業にも向かない。人が暮らすには、あまりにも過酷な土地です。
つまり、国土の面積という「数字」のなかには、砂漠や高山といった「数えられてはいるが、実際には使えない土地」が、かなりの割合で含まれているわけです。私はこれを知ったとき、なるほどと膝を打ちました。面積が広いという数字だけを見て「だからすごい」と早合点してはいけない。広さの中身を分解して、そのうちどれだけが「実際に人を養い、富を生み出せる土地」なのかを見なければ、本当のところは何も分からないのです。
これは、私が投資で決算書を読むときの態度と、まったく同じです。会社の規模を示す数字には、いろいろなものがあります。総資産。売上高。従業員数。けれど、総資産が大きいからといって、その資産がすべて利益を生んでいるとは限りません。使われずに遊んでいる資産、価値が下がってしまった資産、見かけ上は計上されていても実際には稼ぐ力を持たない資産——そういう「数字には乗っているが、実質的には働いていないもの」が、たいてい紛れ込んでいます。砂漠や高山が国土面積に計上されながら経済を生まないのと、まったく同じ構図です。数字の大きさに惑わされず、そのうちどれだけが「実際に働いているか」を見抜く。これが、規模を正しく評価する第一歩なのだと、私は考えています。
少し脇道にそれますが、私はこの「使える土地と使えない土地」という考え方を、自分の家計でもよく思い出します。私の資産にも、いわば「砂漠」のような部分があるのです。いざというときのために置いてある生活防衛資金は、ほとんど増えませんが、これは「使えない土地」ではなく「あえて遊ばせている土地」です。けれど一方で、なんとなく解約しそびれている割高な保険や、目的のはっきりしない口座に眠ったままのお金は、これはまさしく「使えていない国土」でした。妻を病で見送り、四人の子を一人で育てる立場になったとき、私は家計の地図を広げて、どこが「実際に働いている土地」で、どこが「数字には乗っているが遊んでいる土地」なのかを、一つずつ点検していきました。総額が同じでも、働いている部分が多い家計と、砂漠だらけの家計では、生み出す力がまるで違うのです。
「一人当たり」で見ると景色が変わる
さて、ここで視点を変えてみましょう。これまで「総量」や「面積」で中国を見てきましたが、これを「一人当たり」という物差しで見直すと、景色がまるで変わってきます。私は、この「一人当たりで見る」という習慣こそ、資産形成において最も大切な目の付け所の一つだと考えています。
中国の経済規模は、国全体の総額で見れば、世界でも一、二を争う巨大さです。前回より前の話で見た「巨大さの引力」は、この総額の大きさから生まれます。けれど、その巨大な総額を、14億という膨大な人口で割ってみると、どうなるか。一人当たりの豊かさという数字に直すと、その順位はぐっと下がり、世界の中ではまだまだ発展の途上にある、という姿が見えてきます。総額では世界トップクラス、けれど一人当たりではまだ道半ば。これが、二つの物差しで見たときに浮かび上がる、中国のもう一つの実像です。
どちらが「本当の姿」なのでしょうか。私の答えは、「どちらも本当だが、見たい目的によって使い分けるべきだ」というものです。国全体としての影響力や、市場としての大きさを測りたいなら、総額で見るのが理にかなっています。巨大な総額は、それ自体が大きな引力であり、無視できない存在感です。けれど、そこに暮らす一人ひとりの生活がどれだけ豊かか、国民一人がどれだけの富を享受しているかを測りたいなら、一人当たりで見なければ意味がありません。総額の大きさは、必ずしも一人ひとりの豊かさを意味しないのです。
私はこの「総量と一人当たりは違う」という事実を、投資の世界でも何度も突きつけられてきました。たとえば、ある会社の利益の総額がいくら大きくても、それを発行している株式の数で割った「一株当たりの利益」が小さければ、株主一人が受け取れる取り分は薄まってしまいます。会社全体がどれだけ稼いでも、株式の数が膨れ上がっていれば、私という一人の株主の取り分は増えません。逆に、利益の総額はそれほど大きくなくても、一株当たりで見れば手厚く稼いでいる会社もある。総額の大きさに惚れ込んで、一株当たりの中身を見落とすと、投資家としては大きな判断ミスを犯すことになります。国を一人当たりで見る目と、会社を一株当たりで見る目は、まったく同じ論理でつながっているのです。
四人の子を育てる私にとって、この「割り算の視点」は、生活そのものでもあります。世帯の収入が同じでも、養うべき子が一人の家庭と四人の家庭では、一人当たりに回せるお金はまるで違う。総額だけを見て「収入があるから大丈夫」と安心するのは危うくて、いつも「頭数で割ったらどうなるか」を考えなければなりません。総量の大きさに気を緩めず、一人当たり、一つ当たりに分解して、実際の豊かさを冷静に見る。この習慣を、私は国を見るときも、会社を見るときも、家計を見るときも、決して手放さないようにしています。
平均値・総量に騙されない統計リテラシー
ここまでの話をもう一歩進めると、「平均値や総量という数字に、いかに簡単に騙されてしまうか」という、統計の落とし穴に行き着きます。私は数字を扱う専門家ではありませんが、二十年投資をやってきて、数字の見方を一つ間違えるだけで、まるで違う結論にたどり着いてしまうことを、嫌というほど経験してきました。
たとえば「平均」という言葉ほど、使い勝手がよくて、同時に危ういものはありません。沿海部の超富裕な都市と、内陸の貧しい地域を、ひとまとめにして「平均」を取ると、その平均値は、どちらの実態も正しく表しません。富める者と貧しい者を足して二で割れば、誰も住んでいない「真ん中あたり」の数字が出てくるだけです。平均の罠とは、まさにこれです。極端に偏ったものを平均すると、その平均値は、現実のどこにも存在しない幻になってしまう。中国の「一人当たり」という平均値も、沿海部と内陸の巨大な格差を一枚の数字に押し込めたものですから、その裏にある凸凹を忘れてはいけないのです。
総量にも、同じような落とし穴があります。「総額が世界一」という言葉は、強い印象を与えます。けれど、その総額が、どれだけの数で割られるのか、そのうちどれだけが「実際に働いているもの」なのかを問わなければ、総額の数字は、ただの大きな看板にすぎません。砂漠を含んだ国土面積、人口で割る前の経済総額、株式数で割る前の会社の利益——どれも、総量だけを見ていては、実際の豊かさを見誤ります。大きな数字を見せられたら、まず「これは何で割るべき数字なのか」「この大きさの中身は本当に働いているのか」と問い返す。これが、私の身につけた、ささやかな自衛策です。
私がこの「数字に騙されない目」を強く意識するようになったのは、正直に言えば、過去に痛い目を見たからです。若いころの私は、大きな数字に弱かった。「総資産がこれだけある」「売上がこれだけ伸びた」という威勢のいい数字に惹かれて、その中身を分解せずに飛びついたことが、何度もありました。けれど、そういう投資は、たいてい長続きしませんでした。数字の大きさと、実際に株主の手元に届く豊かさは、別物だったのです。火傷を繰り返すうちに、私はようやく「総量や平均ではなく、一人当たり・一株当たり・実際に働いている部分で見る」という習慣を身につけました。遠回りでしたが、これは今、四人の子の資産を預かるうえで、何にも代えがたい支えになっています。
統計リテラシーというと難しく聞こえますが、要は「その数字は、何を、どう測ったものか」を一度立ち止まって考える、という姿勢のことです。平均なのか、合計なのか。何で割られているのか。中身は均一なのか、偏っているのか。実際に働いている部分はどれだけか。この問いを習慣にするだけで、世の中に溢れる威勢のいい数字に、簡単には踊らされなくなります。お金にまつわる数字ほど、人を惑わせるものはありません。だからこそ、数字を冷静に分解する目を、私は何より大切にしているのです。
国も企業も「実効規模」で測る
ここまでの話を、一つの言葉にまとめるなら、「実効規模で測る」ということになります。見かけの大きさではなく、実際に効いている大きさ。総量ではなく、一つ当たりに分解し、そのうち本当に働いている部分はどれだけかを見抜く。この「実効規模」という物差しは、国を見るときにも、企業を見るときにも、そして自分の家計を見るときにも、まったく同じように使えます。
国でいえば、見かけの国土面積や経済総額ではなく、「実際に人を養い、富を生み出している土地と人口は、どれだけか」が実効規模です。砂漠や高山を差し引き、人口で割り、沿海部と内陸の偏りを踏まえたうえで見えてくる、実際に働いている経済の大きさ。これこそが、その国の本当の力を表します。広い国土という堀を持っていても、その大半が砂漠なら、堀は十分に活かされていない。前回の言葉を借りれば、「堀があるかどうか」だけでなく「その堀を活かせているか」まで見て、はじめて実効規模が分かるのです。
企業でいえば、これはもっと具体的です。私が会社を評価するとき、いちばん信頼している物差しは、総額の数字ではなく「一株当たり」で見た数字です。会社全体の利益がいくら増えても、その裏で株式の数が膨れ上がっていれば、一株当たりの利益は増えません。株主である私の取り分が薄まってしまうからです。逆に、会社が地道に自社株を買い戻して株式数を減らしていれば、利益の総額が横ばいでも、一株当たりの取り分はじわじわ増えていきます。決算発表で「過去最高益」という総額の見出しが躍っても、私はまず「では一株当たりではどうか」を確かめます。総額の華やかさより、一株当たりの実質を見る。これが、私が長年かけて身につけた、地味だけれど確かな習慣です。
ここで、借金と複利についても軽く触れておきます。実効規模を着実に増やしていける企業——一株当たりの価値を、長い時間をかけてじわじわ育てていける企業は、複利の力ととても相性がいい。安定して実質的な豊かさを積み上げるものは、時間を味方につけて、雪だるま式に大きくなっていくからです。一方で、見かけの総額だけを膨らませるために、過剰な借金を重ねて規模を追う——そういう拡大は、私が最も警戒するものです。借金のコストは確実にかかりますから、それを上回って実効規模を増やせる確信がない限り、借金で規模を膨らませるのは、複利を敵に回す行為になりかねません。借金は、確実にそのコストを上回って増やせる例外的な場面でのみ意味を持つ道具にすぎない。実質を伴わない総額の拡大に、複利は味方してくれないのです。
そして、私自身がたどり着いた結論を正直に言えば、「どの企業が実効規模を着実に伸ばすか」を一社ずつ見極めるのは、本当に難しい仕事だ、ということです。だからこそ私は、四人の子の教育資金を預かる身として、無理に一社を当てに行くのではなく、世界中の株式に幅広く分散投資する方法を選んでいます。全世界に分散しておけば、その中には、見かけだけでなく実効規模をきちんと育てている優れた企業が、自然と数多く含まれます。私はどの企業が勝ち残るかを当てなくても、「実質を積み上げる企業群」を丸ごと薄く保有できる。総量の大きさに惑わされず、一つ当たりの豊かさを、分散の網を通して受け取る。これが、地味ですが、私には一番しっくりくるやり方です。
まとめ——総額の大きさと、実効的な豊かさは別物だ
今回お伝えしたかったことを整理します。中国は確かに広い。けれど、その広さは均一ではありません。沿海部には世界最先端の都市が栄える一方で、内陸や西部には人影のまばらな広野が広がっています。さらに、国土のかなりの部分は、砂漠や高山といった「数えられてはいるが、実際には使えない土地」です。「広い」という総量の言葉だけでは、その国の本当の力は測れないのです。
そして、巨大な経済総額も、14億という人口で割って「一人当たり」で見ると、景色がまるで変わります。総額では世界トップクラスでも、一人当たりではまだ発展の途上にある。総量の大きさは、必ずしも一人ひとりの豊かさを意味しません。平均値や総量という数字は、極端な偏りや、働いていない部分を覆い隠してしまう。だからこそ、その数字が「何で割るべきものか」「中身は本当に働いているか」を問い返す統計リテラシーが、お金を扱うすべての場面で欠かせないのです。
今回の核心は、「総額の大きさと、実効的な豊かさは別物だ」という一点にあります。見かけの規模ではなく、一つ当たりに分解し、実際に働いている部分はどれだけかを見抜く「実効規模」で測る。これは国を見るときも、企業を見るときも、家計を見るときも、同じ物差しです。私は会社を評価するとき、決算発表の華やかな総額の見出しではなく、「一株当たり」という実質の数字を、何より信頼しています。総額の大きさに惚れ込まず、一人当たり・一株当たりで見る習慣——これこそが、数字に踊らされないための、確かな補助線になります。
もちろん、これはすべて私個人の見解であり、特定の国や銘柄、投資手法を勧めるものではありません。規模の評価に唯一の正解はありませんし、総量で見るべき場面も、一人当たりで見るべき場面も、目的によって使い分けるべきものです。それでも、「大きな数字を見せられたら、まず割り算を疑う」という視点は、威勢のいい数字に目を奪われがちな私たちにとって、頼もしい味方になるはずです。そして私の結論は、いつも同じ場所に着地します。実効規模を着実に育てる企業群を、一社ずつ当てに行くのではなく、世界中に分散して薄く広く保有し、複利の力で時間をかけて育てる——実質的な豊かさの恩恵を、分散の網を通して受け取る。これが、大きな数字に何度も火傷してきた一人の親が、たどり着いた地味で確かな答えです。
このシリーズを通読したい方は、出発点となる第1話、シリーズ全体の中国から学ぶ資産形成シリーズのハブページ、そして関連シリーズもまとめた統合ハブページもあわせてご覧ください。
次回は、今回までに見てきた「広さ」や「地理」という土台を、もう一歩先の現実的なリスクへと進めます。第13話:地政学リスクを資産配分でどう扱うか へ続く。広い国土や有利な地理は強力な堀になりえますが、その堀が、国境をめぐる緊張や対立の火種になることもあります。地政学という、変えられないけれど揺れ動く条件を、一人の投資家として、自分の資産配分のなかでどう受け止め、どう備えるか。総量の大きさに惑わされず実効規模で測る目を持ちつつ、その規模を脅かすリスクとどう向き合うかという、より実践的な問いに、いっしょに踏み込んでいきましょう。


